宇都宮発・・東高橋経由・・益子行き バスの旅


suc4-09 2005/1/22
JR宇都宮駅西口からバスで約1時間
の距離にある焼き物の町益子。
今日は、Webで繋がった「ベンチさん」
に紹介いただいた焼き物の町益子を訪ね
てみました。

1月22日、土曜日、晴れ。・・
10時19分、JR宇都宮駅西口から東
高橋経由の益子行きへ乗り込む。
東部宇都宮発のバスには先客が2人だけ
だった。そのバスへ乗り込んで最初のバ
ス停は宿郷だった。なんと私の泊まって
いるホテルの真ん前、何も駅を渡って西
口まで行くことは無かったわけだ。

ふとバスの進行方向に目をやると道路標
識に益子まで25km、水戸まで74kmと
書かれていた。

車内のアナウンスは、次のバス停が「うだ
いまえ」と伝えている。「うだい」?よく
見ると宇都宮大学の大きな表示が見える。
「うだい」とは、宇都宮大学の短縮呼称だ
った。

ここまでは進行方向に向かって右側の席に
腰掛けていたが、日差しが強く顔が火照っ
てきたので左の席へ移った。
・・・
バスの中は強い日差しを受けて汗ばむほど
の温度に成っている。
昨日、はじめてはいたももひきを脱いで来
て正解だった。ただし、一枚着込んだセー
ターが余分だった。
いまは暑いが、バスを降りれば丁度良いく
らいかも知れない。

バスは細長く続く商店街の狭い道をガタガ

タと立て付けの悪い窓を震わせながら走
る。
やがて、広い川に架かる橋に出た。鬼怒
川に架かる新鬼怒橋だった。

その橋の上から見る風景は私の暮らす国
東半島では見ることの出来ない広い河原
と清流だった。

川を渡ってしばらく進むと、見渡す限り
の平野が広がる。北関東平野の広大な大
地は国東半島の狭い谷間の風景とはまる
で異なる雄大さを感じた。
その平野の中に点在する森。いつか教わ
った民家を守る防風林だ。森の中に身を
ひそめるように農家が見える。
上州の空っ風から身を守る知恵をこの目
で見た。

バスはひたすら益子を目指して走る。
車窓に雄大な平野の風景が移り行く。
車窓・・窓枠があるからそこを流れ
る風景が更に良く見えるのだろうか。
今日の車窓は私の為の美術館の様な気
がして、最高の贅沢を感じた。

その窓枠に切り取られた景色の中に大
きなケヤキが真っ青な空に黒いシルエ
ットを美しく見せる。ゴッホもモネも
良いが、いまのこのケヤキの風景に敵
うものはないと思えるほど美しいと感
じた。

11時25分・・益子駅到着。とても
のんびりと気分いい1時間のバスだっ
た。

 

・・・・・・・・益子町散策・・・・・・・

日陰には年末年始に降った雪がまだ残って
いた。今日の目的は特には無い。強いて言え
ば、日頃の運動不足を少しでも解消出来れば
良い。

駅の観光案内で益子の窯元と販売所を示した
地図をいただいて歩き始める。

バスから降りた私をカモと見たか、数台停ま
っているタクシーの運転手が視線を投げかけ
る。
・・
そいつを無視して、真岡鉄道の線路沿いを
歩き始めると、突然「ポーッ・・」と甲高
い汽笛の音が聞こえて、真っ黒な煙を吐い
て蒸気機関車が走ってくる。

突然の出来事に当惑して、何が起こったか
と目を丸くした。
珍しい光景に気付いてあわててカメラを向
けたが、写っていた蒸気機関車は豆粒ほど
だった。
懐かしい石炭のにおいがした。


突然の私事になるが、陶磁器にはあまり興味
がない。
ただし、毎日使う茶碗には結構うるさい。器の
役割とは、使う者の手に心地よく馴染むこと、
それから、盛る料理の邪魔をしないこと、そし
て、ちょっとした遊び心があること・・・その
様に、勝手に思う私なのですが、この頃の焼き
物は私には理解できない凝ったワビサビの塗り
つけや妙な形で高額な対価を要求する。

そんな作家とか先生と呼ばれる方々がこねくり
まわす土と思考で作られる焼き物には興味がわ
いて来ないわけです。

なんか生意気に思われるかも知れませんが、私
にはそのような芸術的センスも価値も分からな
い人間なんです。・・

そうそう、「有名作家の店」なんて看板を出し
た寄りつきがたい所もありました。

陶芸の町のメインストリートを歩くと、
おおよそ100軒くらいはありそうだが、
土曜の休日にしては客はまばらで寂しい。

どの店も、店先には大きな瓶や傘立てが並
び、奥には徳利や茶碗等の小物から多少芸
術的な香りのするものが並んでいる。
その様を外から眺めていると「どうぞ中も
ご覧下さい」と声をかけていただく。

いつもはもっと賑わっているのだろうか?

そろそろ昼もとっくに過ぎて腹の虫が騒ぎ
始めた。


昼食でもと思ったが、坂の天辺にある
「陶芸メッセ・益子」を覗く事にした。

高台に上ると北関東平野が広がりその向こ
うに白く雪を頂いた山々が見えた。
素晴らしい風景をしばらく眺めて心の中に
あった多少のストレスもどこかへ飛んでい
った様な気分になった。

それでは、早速と施設に向かう。
先ずは、この地に民陶芸を根付かせて発展
させた濱田庄司宅の見学から始まった。

藁葺きの大きな建物は私一人で上がり込む
には少し気が引けたが、冷たい光を放つ板
の間に座ると障子や格子戸の隙間をくぐり
抜けて来た優しい光が心地よい空間を作っ
ていることに気付く。

この空間が濱田庄司の陶芸思想を育んだの
だろうと勝手な想像を膨らませる。

建物の外には大きな登り窯もあって、その
脇では陶芸を教わりながら楽しめる施設も
有るようだが、人影は見えなかった。

そこから、益子の歴史を作り上げてきた陶
工の作品を展示したギャラリーへ向かう。
途中の渡り廊下に益子の歴史が書かれてい
た。

それをカメラに収めた。あとでじっくり読
もうと、また、その歴史を益子町散歩のレ
ポートの中に紹介しようとも思った。
入場料を払ってギャラリー館内へ入る。有
名作家の作品は目を見張るインパクトは感
じるが、自分の生活空間には無縁の造形物
だった。

それなりの置かれる間所を想定して作られ
たものと思うが、展示にその配慮はなく、
ただただ置かれている焼き物・・・もう一
工夫の配慮が有ればと思う。

そさくさと館内を巡って外へ出た。

真っ青な空に真っ白な雲が浮かんでとても
眩しかった。


強い日差しを銀色にはね返す瓦屋根



駐車場の隅でひなたぼっこをしていたネコ
そのまま道を下って行くと大きな駐車場が
あって大型の観光バスが出入りしている。
駐車場の周りには大型の陶芸土産店が軒を
並べている。

覗いてみると、メイン通りとは別世界の賑
わいようだ。
店内はあふれんばかりの人が所狭しと並べ
られた陶器や土産品を品定めしている。

その二階にはたいてい食堂があり、そこも
大変なにぎわいだった。
その様子に閉口して元来た道を引き返す。
頂上を越えて少し下ると、左手にそば屋が
有った。

早速暖簾をくぐって中にはいると、先客は
2人のみ。座敷に上がり込んでおすすめを
尋ねるが返事なし。どうも耳が不自由なよ
うだ。
それではと、メニューからけんちんソバを
注文する。だいぶ冷えた体をこいつで温め
よう。
早速出てきたけんちんソバをいただく。な
かなかのソバだったが、予期せぬ事態・・
なんと、私の苦手なコンニャクが入ってい
た。そいつをかきわけながら十分な満足感
を得ました。・・ご馳走様でした。・・

さて、足もだいぶくたびれてきたし、腹も
満足になったし、そろそろ帰り支度にしま
しょう。益子の駅まで歩いて行きます。

そうそう、歴史有る益子町には、昔懐かし
い畳屋さんや麹屋さんが今も元気に商売し
ています。
そんな所を見て回るのも良いかも知れませ
んね。

ベンチさん・・今日は楽しい一日でした。
また、おすすめ所をご紹介下さい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

写真は、重厚な門構えの奥に藁葺きの母屋
がたたずむ平野家。
     

益子焼の歴史/「陶芸メッセ・益子」歴史掲示より転記

1)操業時代
益子の窯業は、今から約140年前の江戸時代後期嘉永
5年(1852年)、大塚啓三郎によって、開始された
と言われています。
大塚啓三郎は町内の大津沢に陶土を発見し、焼物を始め
ました。当時の益子町は黒羽藩の領地で、藩ではこの窯
業に着目し、安政3年(1856年)藩の産業振與とし
て保護し、彼の仕事を援助した為、その後徐々に窯元が
増えてきました。
啓三郎は笠間時代の朋友で相馬焼の荒れを修得していた
田中長平を呼んで、共に仕事をしたので益子焼には操業
の頃から、笠間、相馬、信楽といった三つの窯場の影響
を受けていたとも言えます。
元治元年(1864年)には6軒の窯元が操業し、製品
の多くは、川船で江戸に出荷され、藩指定の商人によっ
て販売されました。
これらとは別に、大田原藩領の大平(現益子町)におい
ても、幕末期に2軒の窯元か操業していました。

2)明治・大正時代
明治4年(1871年)廃藩置県が行われ、黒羽藩の御
用窯であった益子の窯元もそれぞれが独立して民窯とし
て出発することになりました。
特に明治中期には、創業当時からの壷、かめ、鉢、土鍋
等に加え、土瓶が大量に作られました。
土瓶製作は手間のかかるやっかいな仕事で、相馬や京都
方面に修行に行ったり、職人を呼ぶ等の努力をし、又、
これらの土瓶には、絵付け専門の画工が文様を描きまし
た。代表的なものに山水紋様、窓絵山水、岩牡丹ほっか
ぶり梅等があり、簡潔で見事な模様になっています。
また、ナコソと呼はれる鮫肌釉の土瓶は大量にアメリカ
へ輸出されました。駅弁と共に販売されたお茶の容器
(汽車土瓶)の東日本唯一の生産地でもありました。

3)陶工の養成・後継者の育成
明治の終わり頃には、生活様式の変化に伴い、東京を中
心にガスや電気が普及し、土鍋や土瓶は金属の鍋やヤカ
ンに代わり、瓶類もガラス製品へと変化した為に、その
販路を首都圏から東北、北海道方面へ求めることとなり
ました。
又、明治36年に陶器製造業者は「益子陶器業組合」
(明治41年に同業組合)を結成すると共に、優れた陶
工を養成する為「益子陶器伝習所」を創設し、後継者育
成を行いました。伝習所は大正3年から町立となり、昭
和14年に栃木県に移管され、「県立窯業指導所」とな
りました。

大正9年の経済大恐慌に益子の窯元も見舞われ、作った
ものが売れず、生産を中止しましたが、窯元には半陶半
農が多かった為に、この苦境をどうにか乗り越えること
かできました。そして大正12年9月の関東大震災によ
り、廃嘘と化した東京圏の復興と共に、益子焼に対する
需要か増大し、世間とは反対に益子は好景気とはりまし
た。

4)濱田庄司と益子
大正9年、初めて益子を訪れた濱田庄司は、この素朴で
健康な暮らしぶりにひかれ、のちに益子に居を定めまし
た。柳宗悦の民芸運動に早くから共鳴し・・・真に美し
いものは技巧をこらしたものではなく、作り手の健康な
暮らしの中から生まれてくるものであり、決して特別の
ものではない・・・という考え方を、焼物の仕事で実際
に示したのです。創業当時から製品のほとんどが、壺、
かめ、鉢、土瓶等の台所等で使われる生活用品でしたが、
濱田の民芸陶器づくりが他の窯元にも影響を与え、飲食
器や花器の生産が多くなりました。

濱田の仕事に共鳴した人達に、地元の陶工佐久間藤太郎
や、窯元ではなかったが影響を受けて、焼物の道に入っ
た木村一郎、又、他所より益子に移り住んだ村田元、合
田好道、島岡達三、多村一等がおります。

5)益子焼の転換期(昭和時代)
昭和30年頃から、戦後の日本経済も発展し、民芸品や、
焼物の需要が増加し始めました。益子を訪れる人も多く
なり、「みんげいましこ」店をはしりとして、益子焼専
門の店が誕生し、従来から生活用品を主に焼いてきた窯
元は、駅弁の釜めし容器などの生産にも従事し、その生
産による経営は安定していました。
しかし、大規模生産を実施した窯元によって小規模な窯
元の生産は打ち切られ、経営不安を生ずるに至ります。
そこで、濱田庄司の指導を受けた民芸陶器づくりに転換
すると共に「益子焼窯元共販センター」を設立したのも
この時期であり、民芸品の認識の高まりと共に新しい販
売形態として注目されました。
その後、焼物を志して益子に移り住む人も多くなり、益
子の昔からの材料を使った伝統的なもの、伝統とは全く
無関係なもの、抽象的なものなど、それぞれが個性ある
仕事をしています。こうした中で、益子の伝統を守って
いこうと努力している伝統的窯元もあります。